中世の宗教自由都市・富田林(大阪府)

富田林市にある寺内町(じないまち)は、大阪の中心部から約30km、大和川支流の石川左岸、河内平野の南部に位置する東西400m、南北350m、江戸時代の町割りを残した町である。
戦国時代、乱世を生き抜く知恵として、町全体を仏法の及ぶ空間、寺院の境内と見なして門徒衆や信者らが生活をともにする町構想が作り上げられた。町の周囲を土居で囲み、税の免除や地元民に裁判権を与えた。都市特権を獲得した人々は自由な商いなどを行い、町を発展させた。
一向宗でありながら軍事的には本願寺に味方せず、織田信長には妥協するという平和戦略をとってきた。町は全くの無防備でありながらしたたかな政治で戦火を免れた。そんな歴史を持つ富田林寺内町には、いまも江戸時代からの建物が多く残され、重要文化財の住宅を含めた寺や町屋が並ぶ。

<コース>
大阪中心部−(国道25号線)−(国道170号線)−富田林
行程 約60km
<赤いドライブルート付近のマーカーをクリックするとその項目にジャンプします>
●寺内町
寺院(真宗)は永禄年間(1558〜1561)に創建された。
本願寺一家衆京都興成寺の証秀上人が、当時この地を治めていた高屋城主から“富田の芝”と呼ばれていた荒芝地を銭百貫文の分割払いで購入。ここに興正寺別院の御堂を建立した。上人は、近隣4か村から有力な百姓を集め、この地の開発が行われた。4ヶ所の村から8人の有力者を集め、8人衆の合議制のもとで御坊を中心とした町づくりが行われた。
寺内町ができたのは戦国時代。周囲には土居を巡らせ、そこには有事の時には竹槍となる竹を植え、「あて曲げ」という半間ほどずらした道づくりをし、見通しを妨げるという工夫がされるなど、町には戦乱を避ける知恵が随所に生かされている。
|
 街に足を踏み入れると時代が 変わったような・・・
|
 のんびりと座っていたのは この家の主人だった
|
重要伝統的建造物群保存地区に指定された町並みには、約500棟もの古い建築物が残されている。なかでも約180棟が江戸時代から明治、大正、昭和初期の建築だ。
江戸時代には幕府の直轄地となり、近くを流れる石川の水運や東高野街道と千早街道の交差する立地は、商業の町として発展した。とくに酒造業が盛んで、寛文(1668)ころの記録では149の店があったという。
|
 いかにも落ち着いた家です (画像をクリックすると拡大写真を表示します)
|
 これが橋です。町内の水路に かけられています
|
 橋の文字
|
●じないまち交流館
外見は町並みに揃えた明治時代の町屋をイメージして造られた建物になっている。
地元の地域活動などに利用するために建てられたものだが、1階には休憩室や富田林寺町の歴史が分かりやすいパネルなどで展示されている。観光案内所もあるので、町の情報や地図などが入手できる。
/TEL 0721-26-0110
|
 寺内町案内所
|
●興正寺別院
仏教の宗派は教義上、境内にはほとんど俗人を入れなかった。そのため門前に町ができるのが普通だったが、一向宗(現在の浄土真宗)は肉食妻帯の宗派であることから寺院の境内として寺内町ができた。阿弥陀仏の名号を本尊とする極楽浄土、領主や武士階級の抗争に左右されない“宗教自治都市”という独自の地域として生まれた町である。
こうして町全体を仏法の及ぶ寺院の境内として町づくりがはじまったところであり、寺は中心地でもあった。成り立ちは少し異なるが富田林の他にも、大阪府下の八尾、久宝寺、枚方、奈良県の今井などが寺内町であるという。
|
 興正寺別院
|
 興正寺と道を挟んで妙慶寺
|
 興正寺本堂
|
 狩野元信派・中興、 狩野寿石とある
|
創建当時の建物はすべて失われているが、本堂は寛永15年(1638)に、書院と庫裡は文化7年(1810)に再建されたもの。真宗道場形式の本堂としては大阪府下最古の遺構という。
本堂の外陣には、江戸中期の幕府御用絵師として活躍した狩野寿石秀信の筆による襖絵がある。この貴重な竹梅図と松図の襖絵を住職の奥さんが気軽に本堂内部に案内し、無料で見せてくれた。その上、写真まで撮らせてくれた。
/TEL 0721-23-3555
|
●町屋建築
町割りは東西南北とも約350mの範囲に、興正寺御堂を中心に、六筋八丁の整然と整備された道筋に家並みが続く。初めは茅葺きの農家風屋敷だったが、やがて酒造業者や商人たちが瓦屋根や立派な蔵を敷地内に建てた。辻角には「あて曲げ」や「用人堀」、また「土居」跡なども今に残す。
町屋は街路に面して主屋、塀、蔵の組み合わせで構成されている。建物の正面は、入母屋、または八棟造りで、壁や蔵の壁面には水切りのための小庇が設けられている。瓦屋根には土間や釜屋から上がる煙出しのための屋根つき窓、外壁は白く塗り固められた漆喰と板に荒格子という構えだ。
こうした町並みがもっともよく保存されているのは興正寺へ続く城之門筋と呼ばれる真っ直ぐ延びている道だ。ここには、江戸時代から明治、大正、昭和初期の建物が並び「日本の道100選」にも選ばれた町自慢の通りである。
|
 興正寺を城に見立て門前を 城之門筋と呼ぶ
|
 煙出し屋根
|
 魔除けの鬼瓦
|
 明かりとりの虫籠窓
|
 100選の道
|
 日本の道100選の標示
|
この町に暮らした商人、町人たちは、新しい時代の風も自由に取り入れながら、学問、文芸、芸術なども育んできた。江戸中期には能謡曲が盛んになり、また豪商の座敷では浄瑠璃や講談なども披露されていた。幕末には長州の吉田松陰が江戸遊学の途中、この町に20日間逗留し、当時の町の様子を日記に残している。
|
●旧杉山家住宅
寺内町が成立して以来の旧家で、代々「杉山長左衛門」を名乗っていた。杉山家に残されている文書によると、江戸時代初期の寛永21年(1644)に遡ることができる。
江戸時代を通じて富田林八人衆の一人として町の経営に携わり江戸中期以降は、造り酒屋として財をなした。屋敷の敷地は町割りの一画を占める広大なもので、主屋、酒蔵、土蔵、釜屋など十数棟が軒を接して建てられていた。
現存する中でも主屋の建築は古く、とくに太い松の化粧梁のある土間部分は17世紀中頃と言われ、その後、延享4年(1747)ごろに座敷や2階部分が増築された。現在も当時のままでに残されている。
|
 町内の案内板
|
 杉山家住宅(重文)
|
 杉山家住宅玄関
|
 土間から座敷を見る
|
 客間は豪華だ
|
 竈と調理場。太い梁が印象深い
|
その他、屋敷内部の建物の造りにも贅が凝らされ、能舞台を模して造られたという大床の間には狩野散人杏山の筆による障壁画が描かれている。その奥に設けられた茶室、数寄屋風の書院も観ることができる。これらの部屋では、能や茶の湯、上方の芸事が催されていた。
民家の中でも最も古く、規模も大きく質もよい住宅として、昭和58年(1983)に国の重要文化財に指定されたことから市は旧杉山家住宅を購入し、3年の歳月をかけて復元。一般公開されている。
|
 珍しい三階建ての蔵
|
 屋敷と蔵
|
 防犯用の忍返し柵
|
 こちらの屋根もとげだらけ
|
 門の上も堅い守り
|
 公開されていない家が多い
|
また明治の末、堺の与謝野晶子らととも活躍した「明星」派歌人、石上露子(杉山タカ)は、この杉山家に生まれている。
/入館料 400円、TEL 0721-25-1000
|
○ニッポンレンタカーの車種・料金
詳しくは車種・料金一覧表をご覧ください。
○大阪府内のニッポンレンタカー営業所
ニッポンレンタカー ホームページの営業所検索で、大阪府内の営業所リストをご覧いただけます。
- ・富田林市観光協会
- 江戸時代以前からの町並みが残る寺内町などのみどころ紹介のほか、事務局ブログのリンクもある。
取材:2011年11月
※ドライブコースの情報はそれぞれの記事の取材時点のものです。
|